学んだこと
私の父は10人兄弟の上から8番目でした。家をつぐ予定ではなかったようで、
「俺はほんとは九州大学に行きたかった。帰ってこんやった・・。」
と酔った時に呟いてことがありましたが、なんの意味が、私にはわかりませんでした
ずいぶんあとから、帰ってこなかったのは、父の一番上のお兄さんのことで
シベリア抑留されたた伯父さんのこととわかりました。
私の実家は筑後市。今、筑後市は「恋の国ちくご」として、町おこしが今盛んです
人気の場所が恋の木神社で、こちらは水田天満宮の中にあります。
奥に抜けていくと・・・
この境内には、2つ対に並ぶ大きな石があります。
これは、大きな俳句が書かれている句碑です。
ひとつは著名なかたの俳句で、その隣には私の伯父の俳句が刻まれています
(パンフレットにも掲載 https://www.mizuta-koinoki.jp/mizuta/ 2番:鹿野北嶺句碑)
水田天満宮の幼稚園には講演で伺ったこともあり
この句碑があることは知ってはいたのですが、
最近になって、俳句を趣味としている友人より、
「なぜあなたの伯父さんの石碑が、水田天満宮の中にあるのか?」と聞かれ、私にもわからない。
話を聞こうにも
伯父本人はもとより、伯母、他の兄弟姉妹、そして私の父も他界しています。
ご本人の息子(私の従兄弟)に聞こうにも、伯母の葬儀の後、書類等も処分してしまっていてわからない。
そもそも帰国後、伯父は家族にもシベリア抑留の話をしなかったらしい。
だから息子のいとこもシベリアで何があったのか全く知らないとのこと。
幼少期に会っていた私の記憶には物静かな伯父さんとしか印象がなかったのでした。
そんな中、その俳句をしていた友人が伯父の経験からでた当時の俳句は価値があるのではと言ってくれ
もう一度、句集本をいとこに借りてよく読んで見ました。
昭和11年に俳句を始めた伯父は、12年には満鉄に入社、その後現地の句会に入り、幹事のかたと知り合う。
その部署へと転勤となるが、そこは軍の秘密機関で、ソ連の輸送力調査に従事。そこでロシア語も学び話せるようになっていたらしく、スパイ容疑がかかり、終戦後8年間抑留され、20年の実刑も受けていたという。
西へ東へ、抑留の居住地を移動させられながら、移動するごとに俳句を書き留めていたノート類は全部没収されたようで
その度に全部覚えて 移動さきでまた書き留めてたと記してありました。
そして、極寒の異国で、まさかの実刑。
なぜ?俺が何をしたんだ? 帰りたい 帰れるのか このまま・・
そんな言葉が頭をよぎってばかり、
そのうちに、仲間や周りの方に、様々なことが起っていき
帰国できた後も、自分だけが帰って来たという思いが強かったのか家族にも話さなかったのだと思いました
このことを実はこの夏、西日本新聞記者の斎藤さんが、興味を持ってもらい、さらに調べようとしてもらったものの
周りの方がすでに他界されていたり、認知症になってあったり、残念ながら当時のことを話せる人とは出会えなかったそうです
時間をかけて調べてくださり、本当に感謝しています。
これらの写真は、最初の世界地図の写真と共に、先日たまたま通りかかった台北の飲食店の方が、日本大好きで個人的に集めてるというものです
こちらにいくと見ることができます。↓
せめて 私があと5年ほど早く調べようとしたら、わかったことも、たくさんあったのではと本当に悔やまれます。
いとこも叔母もなくなった後、実家のものを処分してしまったため、伯父が書きためていたものなどを今にして取っておけばよかったと。
これは我が身内だけの話ではないなと思いました。
今、戦後生まれ、私たち世代が、戦争体験者からリアルに話を聞いておかないと、次に伝えるチャンスはどんどん減っていくんだ。
いろんな角度から、興味を持つことが大事だなと改めて思いました。
そして伯父が帰国して、作った筑後の句会は、今も活動してらっしゃること、なんだか嬉しかったです。
このような句集を出版くださってありがとうございます
みなさま、筑後の恋の木神社に行かれる時には、よければ、伯父の句碑にもお立ち寄りくださいませ
なんだか、夏からぼちぼち書いてアップが今となってしまいました