ちょこっと「体操・運動遊び」
http://fanfunfukuoka.com/feature/39137/
リニューアルした西日本新聞web版コラムのファンファン福岡のコラムに下記内容で書きました
東海道五十三次、総距離は492km。京都から江戸・東京まで、歩いていた息子より、
「俺の足、止まらんくなったけん、東に向かうけん…」
と連絡をもらった私。
「あ〜そんな予感がしていました。で、何処に行くの?」
「えっと…東北へ向かう。気仙沼の…」
「気仙沼…へえ〜〜」
今までの経験から、何を言われても驚く事もなく、距離を調べると、今までの距離が500kmあまり、さらに500km歩くという…。
しかも2月。
寒かろう…。
さらに息子は、福島を通り、かつてボランティア活動をしていた宮城に行くと言いだしました。
聞いた私は思わず、自分のスケジュール帳を見ながら、呟きました。
「おお〜〜それって、来週末は母も、便乗していい??」
(実はこの歩きの旅、ここに至るまでも、いろんなストーリーがあったようなので、後日また書きたいと思っています。)
ということで、
仙台空港で待ち合わせをした私、久しぶりに彼の顔を見た瞬間、思ったのは
「黒い…」
日本列島を東に向かって歩くため、冬なのに息子の顔は真っ黒に日焼けし、長旅のお供の、靴は足の甲をかばうはずの皮も底も、ひび割れていました。
前回来た時は、やはり長旅で、下駄が縦に割れてしまい、ガムテープでぐるぐる巻きにして行き、どこに行っても最初の話題になってよかったらしいです。
さすがに時間の制限もあり、空港からレンタカーに乗って行きました。
自分の足で歩んできた、福島原発の周辺地域の話しを聞きながら(こちらも後日書きます)向かったのは、宮城県気仙沼市の唐桑半島にある民宿「唐桑御殿 つなかん」
漁業が盛んなこの地区ですが、こちらの住所は
「マグロが立つ」と漢字で書いて「鮪立」(しびたち)と読みます。(う〜〜ん、難しい地名だわ)
1950年代後半~70年代に、マグロ漁が最盛の頃、漁師たちが勲章として、競うように建てた、立派な入母屋造りの家は「唐桑御殿」と呼ばれています。
この築100年の建物と同じくらい魅力なのは、女将の菅野一代(いちよ)さん。
「2011年3月10日にね。借金して、やっと新しく揃えた牡蠣の養殖用のイカダや仕掛け。その翌日にさ、3月11日に津波が来て…。10分たらずで工場も含めてぜんぶ流され、我が家も全部やられてさ。財産も全部なくなってしまったのよ。ははは…」
東日本大震災で、津波の大被害を受けたこの地区。すこし高台に立つこの家も3階まで水をかぶり、そんななか震災直後に学生ボランティアがダンボールに書き残していったメッセージに励まされ、ネットを介したファンドで1000万円集め、全壊した自宅を復旧。翌年8月にみんなが集まれる民宿を開いたそうです
料理長の今井竜介さんにも話しを聞きました。
津波の情報が出たあと、「このままでは船がやられてしまう」とお父さん達は波を避けようと船で沖にでたそうです。すると養殖イカダも港にあった船、建物と一気に波にのまれ、その上火災も起きて、岸に帰りたくても帰れず、3日間、海の上。離ればなれになった家族。生きているかどうかもわからず不安な時間を過ごし、三日ぶりに会ったお父さんの第一声は「…煙草くれ」だったらしいです。
「ほかの言葉はなかったの?」
なんて、今では笑い話になっているそうです。
離れ離れになった家族に逢えたことで、本当にほっとされたのだろう…。
さて、新鮮な牡蠣と新わかめを楽しめるのは今!
こちらの創作料理の数々、味はもちろん、豪勢でお洒落なんです
寿司屋で10年修行し、海外にも旅をしてその味を楽しみ、誕生した料理の数々。翌朝の食事は、オリジナルのスペイン風オムレツ?民宿の朝を彩ります。鍋の出汁を利用したフランスパンと卵の組み合わせに、おお〜っと。
聞けば、スペインにふらっといった時に思いついたアイデアを料理に活かしたそうです。とにかく、いろんな本や音楽についての話が面白い!!掘りごたつを囲んでの、おしゃべりがまた楽しかったです。
翌朝には牡蠣剥きの見学に。一緒に働くおばさま方の明るい声が響きます。
殻をはずしたばかりの牡蠣を、そしてホタテを手の上に乗せてもらうと、ぷるんと動きます。
本来、私は牡蠣が得意ではない…のですが、これは「もう〜〜〜言葉にできない」美味しさでした。(あ、「あま〜い」とお笑いのギャグのような声は連発していましたが。。。)
漁師体験もできるのでみなさま、機会あればぜひ。
帰りには大漁旗を振っての見送ってもらって向かった場所は、陸前高田の「奇跡の一本松」
その保存に議論がまき起こっていたのは知っていたけど…
その場に立つと何も考えられなくなりました。
目の前の松林が一気になくなった。
たった一本だけ残った。
震災から5年も経つけど、まだ周りの土地は、整地の途中段階。広大なさら地。広すぎて、工事用の重機は並ぶ中、動いているのは数台に見える。時が止まったような静寂の中で、かなり遠くから、工事の音だけがする
本当に全部なくなったんだな…。
そんな中、この一本の松だけが残ったんだ
夜、テレビで、震災後に語り手ボランティアをしている高校生の女の子がでていました。
「やっと話せるようになったんです。おじいちゃんが、避難勧告がでていたのに家に居て、そして亡くなりました。私の帰りを待っていて離れられなかったみたいで、ずっと自分のせいだと思っていた、いま、やっと語れるようになった」
そんな彼女がかつての自分の家の前で、話していた。
「今、みなさんが逢えている人、毎日逢えるわけではないんです。急に逢えなくなる事もある。当たり前ではない」
実は唐桑についたとたんに
「まずはここを見て」と息子に言われたのは、お宮につながる階段途中にある石碑
「地震があったら、津波の用心」昭和8年と刻まれています。津波は何度か繰り返してきている。そのたびにもう一度。いろんな人と一緒にがんばっていくんだなと感じました。
一期一会。
私はどうだろう…。
帰りの飛行機の中で、いま一緒に活動している私達の会社の事を考えました。
MIKIファニットのスタッフや、関係者のみなさまとどのようにして出逢ったか、たどって書き出してみると…。
そっか〜こんな事からはじまったんだ…。とつくづく。
ふとした行動で、変わっていったことを確認しました。
ひとりじゃできないのに、誰かのおかげで進んだ事がたくさんあります。本当にありがたい。
一緒にチャレンジできる仲間がいることに感謝です。
この旅は、子ども達の心に「何度でもがんばる」気持ちを育てていこうと改めて考える旅になりました。みなさま、本当にありがとうございます。
ところでお気づきでしょうか?この「ファンファン福岡」が新しく生まれ変わりました。
まさにチャレンジ精神の一木編集長(一本松ではありません、笑)のもと、おもろい記事でいっぱいのファンファン福岡、今後もまた、私もがんばります。
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こちらのコラムで紹介した「携帯代高い娘に100万円」の話しを、2歳児を育てる東京のライターさんによってまた新たな記事になりました。反響も大きく「yahoo!BEAUTY」でたり「LINEニュース」のおもしろネタコーナーのトップに!他にもLivedoorニュースや、アメブロニュース、ネタりかにも取り上げられたようで、自分でもビックリです。
こちらにまとめました。→ https://mikitachiyama.com/blog
また毎土曜に西日本新聞朝刊にて、動画と連動した「ちょこっと体操」を連載していますので、のぞいてみてください。