地域づくり
「島根は、一度解散したほうがいいのか?」
島根県立大学で開かれた山﨑亮さんの講演は、学生たちによる「島根解散総選挙!」から始まりました。
地域をどう盛り上げるか、ではありません。
いきなり、解散するかどうかです。
まちづくりの講演に来たつもりが、冒頭から島根県そのものの存続を問われるとは思いませんでした。投票用紙があったら、住所と生年月日まで書きそうな勢いです。
しかし、考えてみると、とても本質的な問いです。
「島根を残す」ことを当然の前提にするのではなく、なぜ残すのか、何を残したいのか、誰のために残すのかを、いったん問い直す。
少し乱暴に聞こえる「解散」という言葉は、これまでの考え方を一度ほどくために置かれたのかもしれません。
島根のこれからについて子どもや学生に尋ねると、
「スタバがあればいい」
「スシローがあればいい」
そんな意見も出るそうです。
もちろん、島根にスタバやスシローがあってはいけない、という話ではありません。私も旅先で見つけたら普通に入ると思います。そこは迷わない。
ただ、スタバやスシローがあることが、人が島根に残る決定的な理由になるのでしょうか。
同じものをもっと多く求めるなら、東京や福岡へ行けば、選択肢はいくらでもあります。
島根にも、その土地で長く営まれてきたカフェや飲食店があります。
都市にあるものを一つずつ持ってくれば、島根は島根として生き残れるのか。それとも、東京の小さなコピーになってしまうのか。
これは、思っていた以上に難しい問いです。
高齢化、人口減少、若者の流出、過疎化。
さらに、交通、医療、教育、買い物といった暮らしの基盤をどう維持するのか。地域の活動や文化を、誰が次の世代へつないでいくのか。
どれも、そこで生活する人にとって切実な問題です。
だからといって、地域の未来を「人を増やす」「店を増やす」「観光客を増やす」という方向だけで考えてよいのでしょうか。
かといって、外から訪れた私が、
「昔ながらの地域文化って、やっぱり素敵ですね」
と、うっとりして帰るだけでもいけません。
私には非日常の風景でも、そこで暮らす人にとっては、毎日の通勤、通学、通院、買い物があります。旅行者は「何もなくて癒やされる」と言えますが、住民には「いや、スーパーはあった方がいい」と言う権利があります。当然です。
では、何を残し、何を変え、何をいったん手放すのか。
そもそも、地域が「生き残る」とは、人口や売上を増やすことだけなのでしょうか。
そんな問いを抱えたまま、翌朝、私は益田駅から島根県芸術文化センター「グラントワ」へ向かいました。
駅前から、電線のない、すっきりと整えられた道が一本伸びています。その先に、石州瓦で覆われた大きな建物が現れました。
「グラントワ」
初めて聞いたはずなのに、なぜか馴染みのある響きです。
しばらく考えて、気づきました。
私たちが行っているシニア世代のチアは「グランチア」。
グラントワと、グランチア。
意味も由来もまったく違います。それでも、二文字ほど親戚のような気がして、勝手に親近感を持ちました。グラントワ側は、まだその事実を知りません。
グラントワは、島根県立石見美術館と島根県立いわみ芸術劇場が一体となった複合文化施設です。
屋根と外壁には、石見地方を代表する石州瓦が使われています。島根の素材を用いながら、美術館、大小のホール、回廊、中庭が一つにつながっています。
けれど、私が最初に引き寄せられたのは、展示でもホールでもありませんでした。
建物の中央にある、水盤でした。
現地で聞いた説明では、水盤は縁のあたりが約1センチで、最も深いところでも約13センチ。
はっきりとした縁取りがないため、水が地面の中へ自然に消えていくように見えます。
その水盤を囲むように、平屋の建物と回廊が広がっていました。
私は、そこに座って、しばらくぼーっとしていたくなりました。
何かを見なければならないわけでもない。
何かを学ばなければならないわけでもない。
誰かと話さなければならないわけでもない。
ただ、そこにいる。
日頃の私は、何かを思いつくとすぐにメモを取り、「これは研究につながる」「これは会社で使える」と考えます。
ところが、このときは、水を眺めながら、本当にぼーっとしていました。
研究者も経営者も、いったん休憩です。脳内の会議も、珍しく全員一致で休会になりました。
何も考えない時間は、自分を空っぽにすることではないのかもしれません。
少し緩み、自分の感覚を取り戻し、自分を静かに作り直していく。
私には、そんな時間に感じられました。
水盤の周囲には、本や展示や彫刻があります。
けれど、それらは「こちらを見なさい」「ここで学びなさい」と強く主張するのではなく、水盤や回廊とともに、自然な距離で存在していました。
自分の関心に合わせて近づくこともできる。
何もせず、ただそこにいることもできる。
そこで私は、文化施設における「参加」とは何だろうと考えました。
文化施設への参加とは、展示を見ることや、公演のチケットを買うことだけなのでしょうか。
講座に申し込むこと。
ワークショップで作品を作ること。
アンケートに答えること。
もちろん、それらは分かりやすい参加です。
名簿に名前が残り、参加人数として数えられ、報告書にも書きやすい。
一方、水盤の前でぼーっとした人は、事業報告書では、かなり扱いにくい存在です。
「本日の成果:一名、しばらくぼーっとしていた」
これでは、評価欄にどう書けばいいのか困ります。
けれど、その人が少し呼吸を取り戻し、気持ちが緩み、もう一度自分の生活へ戻っていけたのなら、それも文化施設が生み出した大切な変化ではないでしょうか。
水盤の前でぼーっとする。
回廊を歩く。
瓦に映る光を見る。
誰かが本を読む姿を、少し離れた場所から眺める。
何かをしていなくても、その場所と関係を結んでいる。
そこにいるだけの時間も、一つの参加なのではないでしょうか。
「島根をどう生き残らせるか」という問いと、「文化施設にどう人を集めるか」という問いは、どこか似ています。
どちらも、人口、来場者数、売上、実施回数など、目に見える数字へ向かいやすいからです。
もちろん、数字は大切です。維持費も人件費も、気合いだけでは払えません。
一方で、数字だけを追うと、その場所にすでにある価値や、まだ目に見えていない関わりを見落としてしまうことがあります。
一人の人が、その場所で少し呼吸を取り戻すこと。
何かをしなくても、そこにいてよいと思えること。
その土地の素材や文化に、説明される前に身体が反応すること。
そうした変化は、来場者数だけでは分かりません。
けれど、文化施設が人や地域にもたらす価値の一つだと、私は思います。
グラントワは、東京にある文化施設を、そのまま益田へ持ってきた建物ではありませんでした。
石州瓦という土地の素材を用い、その色や光、空や水を取り込みながら、今を生きる人が過ごせる場所としてつくられています。
地域が生き残るとは、大都市にあるものを増やすことだけではない。
そこにしかないものを、昔の形のまま保存することだけでもない。
その土地がもともと持っているものを、今の人が関われる形へ編み直していくことなのかもしれません。
スタバがあってもいい。スシローもあっていい。
でも、それだけではない。
島根にあるものを「都会にないから不便」と見るだけでなく、「ここには何が残り、どんな関係が育っているのか」と問い直してみる。
「島根解散総選挙!」は、島根をなくすためではなく、島根を当然のものとして扱わず、もう一度考え直すための選挙だったのかもしれません。
私はこれまで、運動やチアのプログラムを通して、さまざまな人の参加を考えてきました。
けれど、動いている人だけが参加者なのではありません。
見ている人がいる。
応援する人がいる。
途中で休む人がいる。
輪の外にいる人がいる。
その場には来られなくても、関心を寄せている人がいる。
私たちは、目に見える積極的な行動だけを「参加」と呼びすぎていなかったでしょうか。
何かをすること。
見ること。
応援すること。
休むこと。
少し離れていること。
ぼーっとすること。
参加には、いろいろな形と距離がある。
私はグラントワの水盤の前で、「参加」という言葉を、もう一度考え直していました。
そしてこのあと、山あいの真砂地区で、私はまた別の「参加のかたち」に出会うことになります。