
ウエルビーイング
古庄美樹
株式会社MIKI・ファニット代表/九州大学大学院芸術工学府博士後期課程
乳幼児からシニア、教育・介護医療の現場まで、35年にわたり、身体活動を通した人の成長と関係づくりに携わってきました。現在は、運動を「関係づくりの媒介」と捉え、インクルーシブデザインと相互支援型運動プログラムを研究しています。
35年の歩みを、還暦を前に振り返る
2026年7月、株式会社MIKI・ファニットは創業20周年を迎えました。
私自身は25歳から運動指導を始め、活動は35年目になります。そして来年、還暦を迎えます。
創業20周年、活動35年目、そして還暦。
いくつかの節目が重なる今、これまで何を受け取り、何を育て、何を次の世代へ手渡したいのか、一度立ち止まって整理してみようと思いました。
そこで、これまでの歩みを一本の木として表したのが、**「美樹の木」**です。
私の名前にも「樹」という字があります。
地中に根を張り、幹を太くし、さまざまな方向へ枝を伸ばす木。大きな風が吹けばしなやかにたわみ、それでも根を離さず、また立ち上がる。
そんな木の姿は、私がこれまで大切にしてきた生き方とも重なります。
子どもの運動教室から始まった活動は、保護者、スタッフ、シニア、介護職、介護施設で暮らす方々へと広がってきました。
子どもの運動指導と、会社経営。
シニアのチアと、介護医療の現場。
海外での交流と、大学院での研究。一見すると、いくつもの異なることをしてきたように見えます。
けれど、一本の木として整理してみると、すべての根に同じ問いがあることに気づきました。
人の中にある、まだ見えていない力を、どう見つけるのか。
その人の「やってみたい」を、どう形にするのか。
そして、誰もが「誰かの力になれる」関係を、どうつくるのか。この文章は、成功の記録だけを並べるためのものではありません。
うまくいかなかったこと。
自分に自信を持てなかったこと。
誰にも気づかれなかった小さな成長。
人に見つけてもらった、自分では分からなかった可能性。そうした出来事も含めて、何が今の私をつくっているのかを、あらためて言葉にしてみたいと思いました。
創業20周年を迎え、これからは、自分が前に立って何かを成し遂げることだけではなく、みんなで育ててきたものを次の世代へどう手渡していくかを考えています。
この記録は、自分史であると同時に、これからを考えるための記録です。
そして、この物語の中に、
「自分にも、まだ見えていない力があるかもしれない」
「まだ完成していなくても、何かが育ち始めているかもしれない」と感じてもらえる部分があれば、うれしく思います。
父がよく口にしていた言葉があります。
「よかとができよる」
「よいものができつつある」という、現在進行形の言葉です。
この言葉が、どのように私の中に根を張り、子ども、スタッフ、シニア、そして研究へと枝を広げていったのか。
その始まりを、家の竹やぶの横に生えていた、ふきの話から書いてみたいと思います。
第1章 土壌
価値は、見つけ方で変わる
私の原点をたどると、家の竹やぶの横に生えていた、たくさんのふきに行き着きます。
父は果樹園を営んでいました。家には竹やぶもあり、春先になると、たけのこがたくさん生えてきます。父はそれを収穫し、地元の市場へ持っていっていました。
ある日、父について市場へ行ったとき、たけのこの近くに、ふきが並べられているのを見つけました。
「あ…、ふきも、お金になるんだ」
家の竹やぶの横にも、同じふきがたくさん生えています。それまでは、そこにあるのが当たり前で、特別なものだと思ったことはありませんでした。
私は父に言いました。
「お父さん、うちのふきも市場に出そうよ」
けれど父は、
「大してお金にならんから」
と言って、手を出そうとはしませんでした。
それでも私は気になり、
「だったら、私が摘んで出してみてもいい?」
と頼みました。
自分でふきを摘んで市場へ出してみると、450円になりました。
8歳の私にとって、それは大きな驚きでした。
父にとっては「大してお金にならないもの」でも、子どもの私にとって450円は十分に大きな価値です。
何もないところから、お金が生まれたように感じました。
けれど、本当は何もなかったわけではありません。
そこには最初から、ふきが生えていました。
市場には、それを必要とする人がいました。ただ、家に生えているふきと、それを欲しい人とを、まだ誰も結びつけていなかっただけでした。
もっと高く売るには
毎年春から夏は、私は父のぶどうの出荷を手伝っていました。
ラップで包んだぶどうにシールを貼る仕事を任されることもあり、そのとき父から、
「シールは気をつけて貼らんといかん。貼り方一つで、高く見えたり、安く見えたりすることがある」
と言われていました。
父は、ふきの売り方を教えたわけではありません。
けれど私は、ぶどうの出荷を手伝う中で、物の価値は中身だけでなく、見せ方や届け方によっても変わることを知っていました。
だから、自分のふきが450円になったとき、父に尋ねました。
「次は束ね方を変えたら、もっと高く売れるかな」
市場でふきを見つける。
家にもあると気づく。
父に提案する。
父がしないなら、自分で試してみる。
売れたら、次はもっと価値が伝わる方法を考える。こうして並べると、大人になってから私が繰り返してきたことと、驚くほどよく似ています。
誰も注目していないところに可能性を見つける。
別々に存在しているものを結びつける。
まず小さく試してみる。会社を始めたときも、親子やシニアの運動プログラムをつくったときも、介護現場で高齢者が職員を応援する仕組みを考えたときも、最初から完成した答えがあったわけではありません。
「これも価値になるのではないか」
「この人にも、まだ見えていない力があるのではないか」そんな問いから始まっています。
8歳のふき売りは、単なる商売の思い出ではありません。
すでにそこにあるものの中から価値を見つけ、自分で動き、確かめる。
それが、私の最初の原体験でした。と、いま気がつきました。
ふきで買ったリカちゃん人形
子どもの頃の私には、ふきのほろ苦い味はよく分かりませんでした。
大人になった今では、その香りも味も、とてもおいしいものだと分かります。春先にふきを食べると、竹やぶや市場、父とのやり取りを思い出します。
価値には、時間がたって初めて分かるものもあるのだと思います。
子どもの私は何年か、春になるとふきを市場へ出し、そのお金を少しずつ貯めました。
目的は、当時高価だったリカちゃん人形を買うことでした。
周りの女の子たちが、みんな欲しがっていたのです。
そして小学校5年生のとき、ついにリカちゃん人形を手に入れました。
ところが、その頃には、周囲のブームは終わりかけていました。
「えっ?」
と思いました。
それでも、自分でふきを摘み、何年かかけて貯めたお金で買った人形は、私にとって特別でした。
ただ、今振り返ると、私はもともと、人形遊びに夢中になるような女の子ではありませんでした。
人形そのものが欲しかったというより、
「なぜ、みんなはそんなに欲しいのだろう」
「実際に自分の手に取ったら、何がそんなに楽しいのだろう」と、自分でも確かめてみたかったのだと思います。
だからなのか、そのリカちゃん人形が今どこにあるのかは、もう分かりません。
今も残っているお弁当箱
一方で、今も大切に持っているものがあります。
保育園の頃に使っていた、リスの絵が描かれた小さなお弁当箱です。
私は三人姉妹の末っ子だったので、身の回りのものは、姉たちのお下がりが多くありました。
けれど、そのお弁当箱は違いました。
初めて、私のためだけに、好きな絵柄を自分で選んで買ってもらったものだったのです。
誰かのお古ではない。
私が使うためにお気に入りで選んだ、私のお弁当箱でした。決して高価なものではなかったと思います。
それでも、そのお弁当箱は、今も手元に残っています。
何年もふきを売り、お金を貯めて買ったリカちゃん人形は、どこにあるか分からない。
それほど高価ではなかったお弁当箱は、今も大切に持っている。人生とは、案外そういうものなのかもしれません。
世間がつける価値と、自分の中に残る価値は、必ずしも同じではない。
値段や流行ではなく、「これはあなたのためのものだよ」と自分に向けられた小さな愛情が、何十年たっても人を支えることがあります。
父の果樹園と「よかとができよる」
私の価値観には、父の生き方も大きく影響しています。
祖父は、友人の借金の保証人になったことですべての財産を失いました。裸一貫で筑後市に引越し、当時20代だった父が中心となって、ゼロから果樹園を築き、広げていきました。
父が選んだのは、ぶどうと桃でした。
父はよく、
「うちの敵はアメリカ。アメリカの農業に勝つ」
と言っていました。
子どもの私には、ずいぶん大きな話に聞こえました。けれど父なりに、日本の農業がこれから生き残る方法を真剣に考えていたのだと思います。
広大な土地を使って大量生産をするアメリカの農業と、同じ方法で競うことはできない。米ではなく果樹を選び、量ではなく質で勝負する。
当時広く栽培されていた一般的な品種のキャンベルから、より高級な巨峰へ。父は周囲に先駆けて農業試験場から苗を取り寄せ、栽培に挑戦しました。
しかも、自分の家だけが成功すればよいとは考えていませんでした。
「自分が成功したら、みんなでつくって、この町の特産品にする」
父が見ていたのは、自分の果樹園の先にある、地域の未来でした。
もちろん、初めからうまくいったわけではありません。
父は毎晩のようにノートに向かい、その日の作業や天候、実の変化、うまくいかなかったことを書き留めていました。
観察し、記録し、試し、次へ生かす。
父は研究者ではありませんでしたが、していることは研究そのものだったように思います。
目の前の変化を丁寧に見る。
うまくいかなければ、方法を変える。
すぐに結果が出なくても、可能性を信じて続ける。
そして、自分が得たものを自分だけのものにせず、周囲へ広げようとする。私が今、現場で起きたことを記録し、研究ノートを取り、実践を社会に広げる方法を考えている姿は、あの頃の父と重なります。
そんな父が、よく口にしていた言葉があります。
「よかとができよる」
「よいものができつつある」という意味です。
大切なのは、「できた」ではなく、「できよる」だったことです。
完成した結果だけを見るのではない。
まだ途中でも、何かが育ち始めている。その小さな兆しに気づき、言葉にする。毎日、果樹の変化を観察し続けた父だからこそ、完成前の可能性を見つけることができたのでしょう。
私は父から、結果だけで人を判断しない眼差しと、まだ形になっていないものを信じて育てる姿勢を受け取りました。
誰にも気づかれなかった二歩
父から受け取った眼差しの大切さを、反対側から実感した経験もあります。
19歳の頃、大学でハードル走に取り組んでいました。
本来なら三歩で次のハードルへ進むところを、私は七歩かけなければ跳ぶことができませんでした。
一年間練習し、七歩を五歩まで縮めました。
三歩には届いていません。一般的な基準から見れば、まだ「できていない」状態でした。
だからなのか、その二歩の変化に、誰かが気づいてくれた記憶はありません。
けれど、私にとっては大きな二歩でした。
何度も練習し、怖さと向き合い、ようやく縮めた二歩です。
そのとき私は思いました。
人の成長を、到達したか、していないかだけで見てはいけない。
三歩で跳べた人だけを評価していたら、七歩から五歩へ進んだ人の努力は見えません。
私は、その小さな変化を見つけられる指導者になりたいと思いました。
父が私に向けてくれた「よかとができよる」という眼差しと、誰にも気づかれなかった二歩の経験。
この二つが重なり、私の中に、人を見るときの基準が生まれました。
私という木の土壌
8歳のふき。
ふきで貯めたお金で買ったリカちゃん人形。
今も残るお弁当箱。
父の果樹園。
「よかとができよる」という言葉。
誰にも気づかれなかった二歩。当時は、すべて別々の思い出でした。
けれど今振り返ると、同じ問いにつながっています。
人の中にある、まだ見えていない価値を、どう見つけるのか。
その人の中で育ち始めたものを、どう支えるのか。完成してから認めるのではない。
今、育ちつつあるものを見つける。
父の「よかとができよる」という眼差しが、私という木の土壌になりました。
それが、私の始まりです。

