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1000年の時をへて、桧原ザクラへ

2017-11-23 08:44:41学んだこと

「和歌と日本人のこころを学ぶ会 」へ
私は、グローバルに働いていくであろう子どもたちだからこそ、「自分たちが住んでいる地域や日本のよさも知ってもらいたいな」と日頃から思っています。先日、
偶然、ご縁をいただき、白駒妃登美さん主催の勉強会へ参加してきました


講師は小柳左門先生。
今回は、天皇が詠まれた和歌を、「あらあら意外とそのような方だったんだ」と
そのお人柄や、当時の状況や心境を交えながら、わかりやすく紐解いて教えていただきました。

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そんな中、あ!この話知ってる!と思い出したお話がありました


勅なれば いともかしこし 鶯の 
宿はと問はば いかが答えむ
         紀内侍(きのないし)
            
意味は、村上天皇の勅命だから、天皇が欲しいと言われた、この紅梅を献上することを断るのは、全く畏れ多い。
ただ毎年、いつも家の庭に来てくれている鶯が来て、「あれ?いったい私の宿はどこに行ってしまったのだろうか?」と私に問うたならば、どのように答えたものか・・・

この歌の作者は紀貫之の娘。
紀貫之の死を悼み、この木は父と思い、見つめていた大切な梅の木を、天皇から欲しいと言われて差し出さなければいけなくなった時に
和歌を書いて枝に下げて置いたそうです。村上天皇は、書かれてる文字の美しさ、和歌の内容に感動し、これは只者ではないと調べたところ、紀内侍とわかり、梅の木を戻したとか、、この話は鶯宿梅(おうしゅくばい)というそうです

私も、もしどうしても、せざるを得ない時に、粋に、こう言ってみたいものだなと思いました 

すると白駒さんのお話はまだ続き・・・
この話がなんと1000年の時を経て、桧原ザクラとして復活するというのです。
びっくりしました

この福岡市のでのこと、南区桧原にある桜の物語。
1984年(昭和59年)3月に、当時、二つの池に挟まれた狭い道の脇に十本ほど桜があったそうです。この狭い道にみな困っていたため、拡張工事が決まり、公共工事は年度末にあるもので、1本の桜が伐られました。その木には、もうあと少しで開花する枝一杯に蕾をつけたままだったそうです。するとその翌朝に、当時の進藤市長宛へ向けて、桜の幹に木をを切ることを惜しむ色紙があったそうです

 花守り 進藤市長殿
    花あわれ せめては あと二旬 
       ついの開花を 許し給え

このうたを偶然、見た方が話して新聞記者さんへ連絡し
「花あわれ ついの開花をゆるし給え」と記事になったそうです

すると、ぞくぞくそのあとも惜しむうたが木の枝にかけられはじめ
その中には、

 桜花(はな)惜しむ 大和心の うるわしや 
 とわに匂わん 花の心は
           香瑞麻

この歌は当時の進藤一馬市長の雅号、返歌だったそうです。
道が広がらないと困るのは必須、しかも年度末、市長も皆もわかっているものの
市長は伐採を請け負った工事担当者に
「せめて、桜の散り終わるまで待てないものか」と要請をしたそうです

そして、担当者の粋な計らいが、池を埋め立てるという計画に変更し、
歩道と小公園までつくられ、今の公園になっていったそうです

そんな白駒さんのお話を聞きながら、こんな素敵な場所が福岡市にあったとは・・と感動しました
読み人知らずの方、その色紙を見つけた方、新聞記者さん、たくさんの方、市長、担当、現場の皆さんと
いろんな人が繋いだ命、来春はぜひ見に行こうと思います

こんな素敵な大和心、ちょっと学んでみたくなりました。
子ども達に繋いでいこうと思います。

そこで講師の小柳左門先生の、親子で楽しむ新百人一首 致知出版社発行を、その場で購入して、声に出して読んでみるとなんだか心地よく、
平安だけでなく、与謝野晶子や昭和の方まで、選ばれていて解説がついてるので、理解して読みやすいです
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真砂なす数なき星のその中に 吾に向かひて光る星あり 正岡子規 

意味は、たくさんの星の中に、私に向かって煌々と照らす光があるとの歌だそうです


和歌っていいものですね
この時間、心が満たされる時間となりそうです
このような機会をいただき、ありがたかったです

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